−「偽善」も「善」と認めるべきでしょうか。
偽善さえできないもんねえ。善を重ねて初めて、偽善しかできないって自分に気づくんだよ。よく私も「偽善」だなって思うよね、自分自身が。真っ白の「善」っていうのは、なかなかできないよね。ただ、母親の子供への愛は真っ白な「善」だよね。"GIVE
AND TAKE"じゃないから。人間の「善」っていうのは、あれだけやったのにって思うんだよね。「やった」っていうことがずっと残ってる。例えば、阪神大震災で一生懸命してあげた。その与えたお金が散財されたら、「せっかく俺たちがやったのに、あんな使い方をして」ってことになる。「善」だったら、それで終わりなわけ。
−そう言われると、そうですね。
これはちょっと違う例だけど、あるお坊さんと小僧さんが歩いてたんよ。そしたら、きれいなお姉さんが水たまりで進めなくて困ってたんだ。それでお坊さんが「どうぞ」って言って、その女性を背負って、その水たまりの向こうへ連れていった。小僧さんはびっくりしたんだね。女性にも触っちゃいけない修行なのに、自分が師と仰いできた人が平気で女性を背負ったもんだから、びっくりしたわけよ。「女性に触っちゃイカンていうのに、何てことをするんですか」って。すると、お坊さんは「おまえはまだあの人を背中に背負っているか」って言ったんだよ。背負ってない本人が背負ってるのに、背負った本人は背負ってないわけよ。
−ほお・・・(感心)
だから、「偽善」もそういうとことがあるんじゃないかなあ。背負ってしまう。「善」なら、やったところで、もう執着を捨ててなきゃいけないんよ。それを仏教では、「喜捨」っていうんだ。
−キシャ?
「喜んで捨てる」って書く。
−それが「善」なわけですね。
「施し」っていうかね。喜んで捨てないとなかなか捨てられんもんね。難しいよね。
−僕たちは今就職活動で、給料・イメージ・待遇・仕事内容などいろんな欲があって頑張れる面があるんですが、その欲がなくなったらどうしていいかわからなくなりますが。
そういう欲が見えてきて、そういう欲を良い面に生かしきろうとすると、それは「意欲」になるでしょうね。これは努力ですね。
−「欲」も「意欲」になればいいわけですね。
だって「欲がなくなったら生きていけない」って今言ってたけど、肉体がある限り、欲はなくならないよね。
−どうしたら「欲」はなくなるんでしょうね。
だからお釈迦さんは修行したんだろうね。そういうのを越えたいっていうのかねえ。それから「四苦八苦」っていうでしょ。「四苦」は「生・老・病・死」だよね。死にたくはないよね。でも、そういうものを越えようとしたんだろうね。
−へえ。
奈良に「ぽっくり寺」っていうのがあってねえ。そこにお参りしたら、ぽっくり死ねるっていうのがあってねえ、団体で行ったんよ。そしたら帰りのバスでねえ、心不全でぽっくり逝った人がいたんだ。
−おお。
それで、周りの人が何を言ったかというとねえ、「いくらぽっくりでも早過ぎる」ってねえ。
−あははは(大笑)。
これが本音よ。矛盾してるだろ。今じゃ「ぽっくり寺」は人が参らなくなったね。どうしてかっていうとね、「ぽっくり寺」の住職がね、ぽっくり逝かないで重病になってるんだねえ。これも肉体があるからねえ、自分の肉体なのに思うようにならない。肉体を背負ってるんだよ。
−「背負う」って感じかあ。
避けられないんだねえ。みんなそう。いくら偉そうなこと言っても、思うようにならない。ましてや、他人は思うようになるわけがない。ところが他人を思うようにしようと思うんだね。・・・どっからこういう話しになったんかねえ。ドンドンずれるからねえ。(笑)
−そうですね。(笑)ところで、日本では死んだら肉体が滅び、魂は残るという考えですよねえ、宗教思想として。
仏教では「魂」ってことはあんまり言わないねえ。私が流を汲んでる浄土真宗ではそういうことは言わんのだよねえ。
−じゃあ死んだらどうなるんですか。
つづく