−じゃあ死んだらどうなるんですか。

浄土真宗では死んだらお浄土に参るっていうよねえ。じゃあ「お浄土」ってどういうところかとよく言われるけど、やっぱり見える世界じゃないし、そこが信仰だろうね。信じる世界がないと。例えば、そうねえ。トンネルがあって、線路があるよねえ。トンネルの向こうに線路があると我々は知っているから、行けるよねえ。

−はあ。

このトンネルを「人間の死」とするとねえ、死ぬのはいやだけど、「死」の向こうにちゃんとした線路があると信じていける世界は受け入れていけるっていうかね。例えば、私の姉が46で、小学校3年生の男の子を残して死んでいったけれども、やっぱり両親に「先に行っとくから来てね」って言ってね。そしたら、両親が「おう、先に行っとけ。やがて行くぞ、心配すんな」って言って別れていく。死にたくないですよ。死にたくないけれども、そういう別れ方はあるわけね。非常に安らぎをもってね。これはやっぱり、「お浄土」っていうものを信じていける世界でしょうね。だからって、喜んで死んでいくわけじゃないよ。でも、みんな死んでいかなきゃならんよ。生身の肉体を持ってるんじゃから。間違いない。人間の死亡率100%!

−そうです!(笑)

とすると、僕やみなさんも別れるって前提で出会ってるわけよ、今。お母さんやお父さんともそうよ。出光のポスターになってるセンガン和尚が亡くなるときに、弟子たちに「辞世の句を」って言われたときにね、だいたい弟子を導くいいことばを残していくもんだけどね、「死にとうない」って言ったってね。

−あはははは。(笑)

ホントやろ。

−一休和尚もそういって死んでいったていいますよね。一番自分に素直に自分の死を受けとめていったっていう話を聞いたことがありますが。

それが本当だろうしねえ。そのまんまで生きていけるっていうかねえ。

−自分の欲をそのまま受けとめていいっていうことでしょうか。

「死にたくないんだ」って。それを超えて生きてるってことだよねえ。自分の「我」とかを。それが一番難しいんだろうねえ。我々はこだわって生きてるもんねえ。「我」っていうものに。それを超えていくっていうかねえ。かといって、私がそれを超えているかっていうと、まだまだねえ。死ぬまで超えきれんよ。

−それが向上心につながるんでしょうか。

それは難しいけど、向上心がないと自分と出会わないだろうしね。そういう人の方が、もっと深いところで自分に出会っていくよね。

−そういう人が「無」の境地という、自分でわかって使ってる言葉ではないんですが、そういうものを求めて行くわけですか。

うん。

−欲が深くなると、欲がよくわかるっていうことですか。

そういうことだね。

−「悪人正機」とかはそういう意味なんでしょうか。

蓮如が「歎異抄」で、これをとりあげてるよね。危険な考えだって。考えによっては、悪人ほど救われるって。でもそれは単純な捉え方だよね。たとえば、比叡山でもね、たくさん修行僧がいる中でねえ、物がいろいろなくなったんだよ。それはおかしいっていうんで、修行僧たちが犯人をつきとめたんだよ。それで、師匠のところにそいつをつきだしたんだよ。師匠は「そういうことをしちゃイカン」って言ってね。それでも、また物をとって、捕まって、つきだされたわけよ。修行僧たちは「こいつを寺から出してください」って言った。「どうしてもか?」「どうしてもだ」「じゃあ、頼むからお前たちが出ていってくれ。これはここに残す。」って。悪人正機とは、我々から見た「悪人」ではなく、仏様から見た「悪人」だよ。そういう人こそ救わなくてはならない。今はそういうのが見えにくくなってるんじゃないかなあ。「人間」っていうのは、「人の間」って書くでしょ。人と人との間にいろんな物が入りすぎてねえ、人が見えなくなってるよねえ。ということは、自分もよく見えてないってこと。自分と自分の間に物が入りすぎている。

−インドに行ったときは、何をするにしても人間を相手にしなければなりませんが、日本に帰ってきたら何をするにも機械相手ですからね。

やっぱり、危険でしょ。私はジュースを自動販売機で買うときも、「ありがとうございました」って言う時があるよ。

−和尚さんそんなことなさるんですか。(笑)

やるよ、時々。しかしねえ、大切な物を失ってきてるわけ。「ありがとう」というのは、すばらしいことだよ。それから、目と目を合わせてしゃべれるって人も少なくなってきたよ。それからねえ・・・ちょっと待っててね。(和尚さんが奥へ何か取りに行く。しばらくして)時たま小学校で授業をするんじゃけどねえ、いろんな国の話をするわけよ。子供に夢を持ってほしいわけよ。それでねえ、いい感想文があるわけよ。もう、こっちが育てられるよ。

−小学校何年生ですか。

6年生。私の話を聞いて、私より深い受け取り方をしてるんよね。

つづく