−仏教っていうのは、「感謝」が大事なんですね。

おっしゃる通り。これが基本だと思う、人間だっていうのは。感謝なんて人間だけだからね。人間だけが与えられたものっていうのはねえ、やっぱり考えていかにゃイカン。笑うこと、涙を流して泣くこと、想い、悩み、苦しむ。うちの長男のねえ、参観日の時だったよ、初めて行ったんかなあ。もうこれが最初で最後だって思ってたらね、34,5だったかなあ、女の先生で、国語で芭蕉の授業をしとったんよ。「夏草や 兵者どもの 夢の跡」って黒板に書いてねえ、この俳句はどういう時代背景で、どこで読まれて、芭蕉はどういう想いで読んだんだっていうねえ、ひとつの「個」として芭蕉を多面的に、立体的に学んでいく授業で、「面白いなあ。非常に有意義な授業されるなあ。」と思って、後ろに立ってたよ。そしたらその女の先生が、「和尚さんは平泉に行かれたことございますか」って聞いたよ。変わった先生だなあって思いながら、「平泉は芭蕉には縁の深いところで、神社、仏閣、その他の風景は芭蕉ならずとも、日本人だったら歌心をくすぐられるような所じゃないでしょうか。古き日本のふるさとを感じさせるところです。」って言ったら、「みなさん、そういう所だそうです。一度行 ってみましょう。」って人を利用するような先生でね。

−あはは。(笑)

そして、15分ぐらいたってかねえ、その先生が「残りの授業は和尚さんにしてもらいます。」ってこう言ったんだ。

−あははははっは。(大笑)

そしたら、うちの息子が後ろを見てねえ、「頼む、変なことはしないでくれえ」って目つきでねえ。誰かが拍手がして、その拍手が広がってねえ。授業の内容はともかくとして、いつもの先生より坊さんの方が面白いでしょう。ハプニングとしてだよ。

−そりゃそうですねえ。

ま、期待に応えて、前に出てねえ。芭蕉の続きをしたんよ。金子兜太(とうた)って知ってるかなあ、日本を代表する俳人ですけどねえ。彼が年に一回ここ(真栄寺)に来て、小林一茶とかの講演をするんですけどねえ。先生もそれを知ってたんでしょうねえ。ただ、私が俳句を知ってるというのは錯覚よ。私自身が錯覚したわけや、芭蕉を少し知ってると思って。知らない奴ほど知ったかぶるというかねえ、まさに私のことよ。ゆっくり話せばいいのに、知ったかぶって早く話したから5分もたんかったんよ。困ってたら、前の女の子が質問してくれてね。「和尚さん、芭蕉の句でどんな句が好きですか。」って言うわけよ。「やがて死ぬ 気色も見えず 蝉の声」って謳ったよ。これは中学生に言う俳句じゃないよ。そしたら向こう側にいるぽっちゃりした子が「坊さんはすぐ死を言う」って。

−ははは。(笑)

ぼそっとね。私も時間があるから、「確かに死を使ってる。でも、これはね、芭蕉は逆説的な言葉なんだ。死という言葉を使って、如何に生きていけばいいかっていうことだ。人間は一枚の紙によく例えられる。和紙があれば、洋紙もあり、紙にはいろんな質がある。同じ人間でも生き方が違う。顔も性格も何も違う。紙には厚さがある。同じ人間でも生きてきた長さが違う。紙にはいろんな色がある。同じ人間でもいろんな人種の人がいる。そして、そのどんな紙でも必ず裏がある。裏は避けられん。人間もみんな死というものを避けられない。死というものを背負うている。」って言ったら、もう中学3年の授業じゃない。お寺より暗いよ。

−あははは。(笑)

こりゃあ、困ったと思ってねえ。そこでねえ、「動物はみんな死がある。でも、人間だけが思い悩み苦しみ、死を考えていける唯一の動物だ。人間だけの特権だ。だから、大いに死は考えなさい。考えることで、動物から人間になっていく。」って言ったんだよ。死だけじゃないよ、笑いもそうよ。「これから、受験もあって、死にたいって言う友達も出てくるかもしれないけど」って言ったらねえ、「俺たちはいつも死にたいと思っている。」って。

−ほう。

勉強が嫌なんかねえ。これも失敗じゃったよ。でもね、「自殺はよしなさい。待てば、必ず死ぬから。」って。「死なんのやったら自殺もいいけどね、間違いなく死ぬから大切にせにゃあかん」って。こうなったら、わかっとるのか、わかっとらんのかわからんがねえ、授業じゃなかったね。

−あはは。(笑)

それで、まだ時間があったからねえ、真栄寺の本堂の前には小さな森があって、ここには蝉が来るって。蝉には来る順序があってねえ。7月の上旬にニイニイゼミは来る、8月にはヒグラシが来て、一番暑いときにあぶら蝉が来て、10月の初めくらいまでツクツクボウシが来てねえ。しかしそれを過ぎると一匹も来ないって。芭蕉はねえ、蝉もそうやって死んでいく。長さこそ違えど、そういう肉体を背負っている意味では自分も同じじゃないか。そういう状況にあるということを知ってたんだ。そういう意味で、自分はいつ死んでもいいっていう生き方を謳ったのが「やがて死ぬ 気色も見えず 蝉の声」だって。で、芭蕉が時代を超えて、いまみなさんの心を揺さぶっていくのは、いろんな命の中に自分を詠んでいったからだって言ってねえ。そしたらチャイムが鳴ってねえ。「息子をよろしく」って言ったんよ。家に帰ってねえ、息子が「なんて馬鹿なことをしたんだ、自分は苛められてもないのに。恥ずかしい。」って、目に涙を浮かべてねえ。泣きたいのはこっちよ。そのときねえ、気付いたんだけど、「ああ、なんて自分は親を足蹴にしてきたんだろう」って。如何に自分のことを思ってくれてた んかってことを、初めて知ったよ。何の話からこうなったんかねえ。ぜんぜん旅と関係ないのに。

−あはっは。(笑)

でも芭蕉は旅をしたやろ。命を求める旅っていうかねえ。旅と結びついたねえ。

−うまい!(笑)

あははは。ごめんねえ。めちゃくちゃな話しになって。

−いえいえ、普段そんなこと考えないので。大学にもこんな授業あってもいいと思うんですけど。頭に残らない授業ばっかりで。

昔は、専門外でもいろいろ話したもんだけどねえ。

−今までの話をまとめると、今の若者を見てて、心の豊かさが欠けてきてるから、そういうものを求めに旅に出て、その中で命というものを見つめ直していけ、というのが和尚さんのメッセージでしょうか。

そうだねえ。

−生と死というものはいろんなところで関わってくるもので、例えばペットを飼った時点で「生」に手に入れて、それを育てていく終わりに「死」が待ってるわけですね。最近、それをテーマにした「た○ごっち」というのがありますが、どうお考えですか。

つづく